都市の大きさ

昔、建築家槇文彦氏が、都市では多くの人がいるにもかかわらず孤独を味わえる・匿名の存在になれる、という主旨のことをある本に書いていました。その部分が記憶に残っています。

その本では、近代都市での人と人の関係を示すイメージとして、点描の画家として知られるジョルジュ・スーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』という絵がとりあげられています。グランド・ジャット島はパリ、セーヌ川にある中州状の島です。この絵では、たくさんいる人々(画面内に約50人)が互いに視線を交差することなく思い思い時間を過ごしている様が描かれています。スーラは19世紀後半にすでに都市での人の関りを理解していたのだと思われます。

私が槇氏の文章に共鳴したのは、東京にその都市像が重なったからに他なりません。

考えてみれば、高密度に人がいてもそこにコミュニティがないという状態、あるいはパブリックな場で個人的な空間を身の回りに発現できるということは、かなり不思議なことです。これは都市に固有のことであり、またひとつの自由さです。ちょっと出かければまるで外国に来たような解き放たれた気分を味わえるのは東京のような「大」都市の魅力です。

一方、京都を訪れたとき、もしここで暮していたら繁華街で知人にばったり出会いそうだと思ったことがあります。街のなかで人の連鎖がおこりそうな感じがあります。それも楽しいことなのかもしれません。福岡も同じような感覚を生むスケールの街です。

東京も京都も福岡も同じく「都市」ととらえられる場所ですが、その中にいて感じることには違いがありそうです。それは都市の規模に関わるところが大きいのだろうと思います。

 

 

 

 

明日館での入学式

二十数年授業を持っているスペース・デザイン・カレッジの入学式が自由学園明日館講堂でありました。毎年この場所を借りて入学・卒業の式典が行われます。今日は冬に逆戻りしたような天候でしたが、新年度の空気を感じられるこの時間と空間がよかったです。来年の入学式までこの新鮮な気分を持ち続けられればよいのにな、と毎年思います。

この講堂はライトの弟子遠藤新の設計で1927年に完成しています。ル・コルビュジェのサヴォア邸の完成は1931年なのでその少し前の建築です。大規模改修工事を経て1997年に重要文化財に指定されています。明日館の道をはさんだ向かいに建っています。

教会を思わせる長椅子(背板の裏に聖書置きのようなラックが付いてます)に腰かけて気づくのは、この椅子も含めいろんなところにラワン材がペンキ塗りで使われていることです。ラワンといえば今はべニヤですがここでは無垢のラワンです。想像するに当時からラワンは安い材料でその使用はコストを抑えるためだったのではないでしょうか。いまはあまり見ることがない素材の使用法が気持ちをタイムスリップさせます。夕闇が降りてくると球形の照明が窓ガラスの内側に写り込みそれが外の緑と重なります。とても居心地の良い空間です。

サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の近代性

本年もよろしくお願いいたします。

 

仕事は少しずつはじめようと思います。

今年最初のブログは好きな建築の話題を。

 

取り上げるのはパラーディオのサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会(ベネチア)のファサードです。

唐突ですが、私はこの17世紀初頭の近世建築に「近代」を感じます。

 

ルネサンスでは古代神殿建築の正面の形がキリスト教会に適用されました。

サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会では、縦横比の違う2つの神殿ファサードが重ねられているのがわかります。これは、内部における身廊、側廊の高さの違いをどうやって建物正面に表現するかという問題に対する、とてもスマートな解答になっています。

 

マントヴァに建つアルベルティのサン・タンドレア教会は神殿利用の早い例です。サン・タンドレアには座りの悪さを感じていました。

ここでは神殿の形は側廊の高さにあわせてあり、身廊は神殿の頂点より高い位置までそびえています。その身廊の端部がファサードにも顔を見せています。神殿の上にトンネルの入口のような形がぴょこんと乗っている不思議な立面構成。これが長年の違和感だったと最近やっと気づきました( 背の高い身廊の存在を変に隠蔽しないところにアルベルティの真面目さが出ているとも思います)。

サン・タンドレアとサン・ジョルジョ・マッジョーレ。ならべて見ると二人の建築家ともが、内部空間と外観の関係という普遍の課題に何らかの答えを出そうとしていたことがわかり、ほほえましくも思えてしまいます。

 

ルネサンス様式の進化と見るべきでしょうか、アルベルテイに比べるとパラーディオの方法のなんと洗練されていることか。二重のファサードはまさにレイヤーです。重く密な石を積み上げた建築でこれほどの透明感と複雑性をもつ「表層」が他にあるでしょうか。

ファサードをよく見ると設計の工夫を見ることができます。少し前面に出ている身廊用の高いファサードは立体感のある円柱で支えられています。逆に、奥まった低いファサードは出っ張りの少ない角柱で平面的な印象です。二つのファサードを区別して前後関係をはっきりさせようとしているようです。角柱と円柱では柱間距離をわずかに違えて角柱が円柱に隠れないようにしているのも同じ理由と思います。

 

パラーディオによる同じくベネチアに建つイル・レデントーレ教会も二重ファサードの建築です。比べてみると面白いです。重心が低いプロポーションはより安定感があります。サン・ジョルジョ・マッジョーレ以上に整ったファサードです。本当にきれいな立面です。しかし違う部分もあります。低いファサードの破風の三角形が中央部で消失している点です。透けるものが重なっているようなレイヤー的な印象はサン・ジョルジョ・マッジョーレの方が勝っています。

 

パラーディオは、内部空間と外観の整合という(わりと単純な)問題を、「表層の奥行」とでも言うべき矛盾をはらむ抽象的なテーマにシフトさせているかのようです。そこに私は、近世を突き抜ける感覚を覚えてしまうのです。

 

書という美術

もう一昨年のことになりますが、顔真卿展を国立博物館に見に行きました。顔真卿(がんしんけい)とは紀元700年代を生きた、唐の皇帝に仕えた官僚です(だそうです)。彼の書はこの展覧会のタイトルにもあるように「王羲之を超えた名筆」とされています(だそうです)。私は書のことは素人もいいところ。王羲之も歴史の授業でのかすかな記憶。しかしアジアに固有の、実用的な書面も含む字の群れを美的なものとして扱う枠組みには非常に興味がありこの展覧会を見たいと思ったのです。

目玉の展示は「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」。

戦乱で亡くした甥に捧げる追悼文の草稿です。感情の起伏が筆致に表れて・・・というところが鑑賞のポイントらしいのですが、私はそんな背景もつゆ知らず。単に視覚的なものとして眺めました。第一書かれている字の多くを読めません。改めて見ていろいろ知りたいことが沸き起こります。1300年前の追悼文の「草稿」が残されているって?、不思議なほど多くの印が押してあるその意味は?、草稿は鑑賞するもの?、美術と史料の境界線は?、などです。日本でも歌集や経文に、手紙または公文書的なものにも名筆とされるものがあります。確認申請書手書き派の私は、のちの世で申請書が名筆とされるようなこともありえるのか、でも押印廃止で朱いアクセントがな無くなるとしまりがないな、などとくだらない思いもめぐります。

当日は多くの人が見にきていました。書ってこんなに人気があるのかという驚きと、どれほどの人が顔真卿や王羲之を詳しく知っているのか疑問に思いました。たぶん私と同程度の知識で見にきた人も多いと思います。そういう人も呼び寄せる魅力が書にはあるのだろうと思いました。

書は西欧の絵画美術に比べれば瞬間芸的なところがある美術です。修正不可・短時間一発勝負の緊張感が書の魅力の出発点であるのは明らかです。では一発ですべての字を完璧なバランスで書けたらそれが書として最もすばらしいかといったらそうでもないですね。私は書の魅力は乱れをどう扱うか、にあるのではないかと見ています。生身の人が短時間のうちに書くもの、必ず乱れ・ゆらぎが生じます。その短時間の中で、バランスをくずしたらそれをリカバーしようとするのか、あるいはアンバランスをむしろ良しとするのか、そんな瞬間的な心の動きが見える作品に惹かれるのかも知れません。文字が示す意味内容を、美術として書を見るとき評価軸に組み込むべきかという問題がありますが、私はそれは切り離してよいと思います。

筆に触れるこの季節、ふと書にまつわる体験を思い出しました。

 

 

 

アルヴァロ・シザのスケッチ

 

ドイツ文化相が新型コロナウイルスの芸術分野への影響に対する支援にあたって「アートは人類の生命維持装置」と表現したことを、経済学者浜矩子さんが紹介しています。いい言葉を紹介していると思いました。

建築はアートとは別物と私は考えますが、アート同様心の問題にかかわり、文字通り生命を機能的に下支えする装置でもあります。

世界は大変なところに来ていますが、今は警戒をしながらも落ち着いて興味に従いシンプルにものを考えるのがいいように思います。そこで今日は、心の動きと形の関係を考えさせる、建築家アルヴァロ・シザにおけるスケッチの意味について少し書いてみたいと思います。

ポルトガル人建築家アルヴァロ・シザの建築の特徴は、20世紀的な工法やデザインボキャブラリーしか使わないのに、非常に現代的な空間・造形を生みだしている点にあります。一見単純な白い四角い箱なのによく見ていくと不思議な魅力がある建築です。20世紀終盤ポストモダンの時代、多くの建築家がモダンデザインを切り捨てようとしたときに、そこをさらに掘り下げるという逆方向の動きをした稀有な存在です。私はこの、見慣れたものに可能性を探るという視点がとても好きです。

シザが建築の検討に大量のスケッチを描くことはよく知られてきたことです。私もそのスケッチに魅せられ一時期彼の作品集を何冊も読みこんだことがあります。そこで見えてきたことは、同じ空間を少しづつ違えて納得いくまで何度もスケッチしている様子です。まるで生きることとスケッチすることが同化しているようです。私も彼にならって沢山スケッチを描きながら空間を構想するようになりました。

彼の空間には身体的なものを強く感じます。何らかの抽象概念や手法を介さず、構想と実体が直接結びついている感覚を受けます。これはまぎれもなく、脳に直結する手によるスケッチをしつこく繰り返してつくり出されるものです。そこには事物の丹念な観察だけがあるかのようで、人と違う新しいもの打ち出そうという欲望はあまり感じられません。描くことは見ること、よく聞くこの言葉は真実でありそうです。

一方で、シザのデザインには、真面目すぎる目でみると「??」と思える、どこかズレたような新しい感覚が必ず一つ二つ見られます。これも理性や整合性を重んじたモダンデザインを批評的に観察しつくした成果のもう一つの現れのような気がします。

彼の建築には近代の建築家に対する敬意も見られます。特にアドルフ・ロース、アルヴァ・アアルトへのリスペクトは顕著です。建築デザインの世界で今や忘れられた、良きものは継承する、という良き習慣すらすくいだそうとしているのかもしれません。

いたずらに新しいものに飛びつくのではなく、眼前にあるものの中に見えにくい良さを、スケッチを通じて見つけては拡張していく。地道な作業です。その積み重ねがやがて飛躍をもたらすこと、この構図は一つの発見・発明といえます。86歳のシザが長年培ってきたその方法はいまだ大きな可能性があるように思えます。彼の、そして世界の建築家の無事を願いたいものです。

 

 

 

Pyramid Song


RadioheadのPyramid Song(2000年ころ)という曲をご存知でしょうか?
先日ラジオでこの曲がとりあげられてました。私はそのとき初めて知りました。
この曲の拍子のとらえにくさが一部で話題になって来たみたいです。私も何度聴いてもテンポをトレースすることが出来ません。(「16分の21拍子」というへんてこりんな拍子説もあるようです)

といってハチャメチャな音楽というわけではなく透明感に満ちた魅力的な曲です。
拍子のとりにくさは不安な気持ちになります。しかし少し耳になじんでくるとそれが心地よい浮遊感をもたらします。

それにしても、聞き手がどうにもテンポをとれないような、なのに惹かれてしまう不思議な音楽をどうやって考え出すことができるのか、トム・ヨークの思考の方法に興味が沸きます。ものをつくる人にはとても刺激的な曲だと思いました。

 

My Architect, a son’s Journey Film

気持ちの良い午後のひととき。ひとり家で ”My Architect, a son’s Journey Film” をみました。10年以上も前の映画ですが、なんと公開当時から気になっていました(^^)。

1974年に亡くなった建築家ルイス・カーンを父に持つナサニエル・カーン(正妻の子ではない)が、父の残した建築を旅しながら、同時代の建築家や事業家、一緒に過ごした女性らの話を聴き、自らの心の中にもう一度父を刻んでゆく、映画人でもある本人が製作したドキュメンタリー映画です。

建築抜きにしても、ルイス・カーンの自由で感情豊かな人生を淡々とおっていく映像とインタビューは、とても見ごたえのある映画でした。代表作のひとつ「ソーク研究所」の中でのインタビュー映像もとても美しく、カーンの建築家としての才能にも改めて感動します。

 

ソーク研究所 ルイス・カーン設計 (wikipediaより)

 

 

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