墓の設計

父の墓を設計しておりました(墓石の部分だけですが)。それが完成したというのでこの週末皆で確認しに行きました。

普通の定形の墓でもよいのではという気持ちも半分ありましたが、少しだけ個性的であまり格式ばらない墓がよいと思いあれこれ考えてきました。

シンメトリーを崩し4つの四角い石がたまたまそこに集まったようなかたちにしました。石それぞれに役目をもたせたからか、造形が主張しすぎないデザインができたように感じました。

一瞥したときのフォルムや石のボリュームは周囲の墓とだいたい同じようにしています。霊園内の街並み(墓並み?)に馴染むようにしたいと思ました。墓石のスケール感など考えたこともなく感覚的に理解するのが難しかったです。何度か更地の現場に行き、確かめながら寸法を決めました。

父は私が設計した建築に暮らすということはありませんでした。墓の設計が供養になればと思います。今度砂利の部分に植物を植える予定です。

どうせなら私たちも、私たちの子孫も墓参りが楽しくなればと、石の色を違えて遊んでいます。楽しげな墓といえばコルビュジェの墓を思い出します。話はそれますが、そういえば彼の墓は石ではなくコンクリートでできています。

 

 

建築を評価するということ

建築は、デザイン的な側面、性能的な側面、コスト的側面、文化的・社会的な側面、いろいろな視点で眺めることができるものです。これは建築の面白さです。

ところが、ある建築を総合的に評価しようとすると、とたんにどの立場から言葉を発したらよいのかわからなくなってしまいます。評価軸がたくさんありすぎるからです。

だから「デザインはいいけど暮らすのは難しそうだな」といった感想がよくおこります。それはよい建築なのでしょうか、悪い建築なのでしょうか。

 

私は建築を評価することに自信を持っています。ここでいう「建築」とは「住みやすい住宅」とは若干違うかもしれません。もう少し多くの文脈を含む建物のイメージです。

では私がどういう目で建築を見るかといえば、それは「複雑さ」があるかないかです。そういう目で見れば建築の本質的な良し悪しを見抜くことができます。良し悪しとは、言い換えれば価値観が変化する世界で永く使っていく意味があるかどうかということです。

デザイン優先、アイディア優先、性能優先、コスト優先、が簡単に見透かされてしまう建築は、ほとんどのものは価値がないと私は考えます。

建築の総体としての価値は、設計者が様々な建築の側面に対して逡巡した痕跡があるかないか、ずばりそこにあると考えます。

迷いなく性能を捨て去りデザインの完成度だけを求めた建築は、いかに美しい空間を持っていてもそれは人間の複雑さに比して単純すぎ、すぐに飽きが来ます。

デザイン優先の建築はあってもよいのです。しかしそれでいて価値ある建築というのは、なぜ他のクライテリアを捨てたのか、その思考の跡が見えます。取捨選択の十分な思考がされていれば時代が移り見る目が多少変わっても建築は生き抜くことができます。

 

人間は複雑な生き物です。人間を包む建築が、その複雑さに追いつこうとしないで何の意味があるでしょう。

私たちが住宅の断熱性能にこだわるのも、快適さを求めるからであるのは当然ですが、同時に、何かを簡単に捨てれば建築の複雑さを保持できない、だから何とか踏みとどまりたい、そう考えるからです。

 

 

 

same scale elevations

「鉄骨住宅」のページにのせている画像なのですが、これまで設計してきた都市型の住宅系建物からピックアップして、立面図を並べています。縮尺を合わせてあります。

 

 

 

 

事務所さがし(1)

私たちの事務所変遷の話を。特にいま新しい場所を探しているわけではありませんが。

2005年に文京区内で最初に事務所を構えて今の小石川は区内3か所目のスペースです。文京区1か所目は本郷三丁目でした。本郷は小型の事務所ビルがたくさんある地域です。

そのスペースは本郷の街を歩いていて見つけた場所でした。オーナーは貸し出すつもりなく空けていたようでした。管理する不動産屋さんを何とか探しだして無理を言って貸してもらいました。しかも格安で。築40年以上の古いビルでしたが外から見て天井が高そうだと思っていたら案の定2.8mくらいの高さがあり気に入ってしまいました。そこで5年くらい過ごしました。最後は建物の老朽化をオーナーが心配して退去することになりました。印刷会社であるオーナーはいい方でした。退去後その建物は取り壊されました。

ずっと古めの建物ばかり探してきました。仲間と独立して最初に借りた日本橋本町の事務所も古いビルでした。その建物も今は駐車場になっています。

古い物件を借りては老朽化で立ち退き、そのパターンを今後も繰り返しそうな気がします。

 

 

 

書という美術

もう一昨年のことになりますが、顔真卿展を国立博物館に見に行きました。顔真卿(がんしんけい)とは紀元700年代を生きた、唐の皇帝に仕えた官僚です(だそうです)。彼の書はこの展覧会のタイトルにもあるように「王羲之を超えた名筆」とされています(だそうです)。私は書のことは素人もいいところ。王羲之も歴史の授業でのかすかな記憶。しかしアジアに固有の、実用的な書面も含む字の群れを美的なものとして扱う枠組みには非常に興味がありこの展覧会を見たいと思ったのです。

目玉の展示は「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」。

戦乱で亡くした甥に捧げる追悼文の草稿です。感情の起伏が筆致に表れて・・・というところが鑑賞のポイントらしいのですが、私はそんな背景もつゆ知らず。単に視覚的なものとして眺めました。第一書かれている字の多くを読めません。改めて見ていろいろ知りたいことが沸き起こります。1300年前の追悼文の「草稿」が残されているって?、不思議なほど多くの印が押してあるその意味は?、草稿は鑑賞するもの?、美術と史料の境界線は?、などです。日本でも歌集や経文に、手紙または公文書的なものにも名筆とされるものがあります。確認申請書手書き派の私は、のちの世で申請書が名筆とされるようなこともありえるのか、でも押印廃止で朱いアクセントがな無くなるとしまりがないな、などとくだらない思いもめぐります。

当日は多くの人が見にきていました。書ってこんなに人気があるのかという驚きと、どれほどの人が顔真卿や王羲之を詳しく知っているのか疑問に思いました。たぶん私と同程度の知識で見にきた人も多いと思います。そういう人も呼び寄せる魅力が書にはあるのだろうと思いました。

書は西欧の絵画美術に比べれば瞬間芸的なところがある美術です。修正不可・短時間一発勝負の緊張感が書の魅力の出発点であるのは明らかです。では一発ですべての字を完璧なバランスで書けたらそれが書として最もすばらしいかといったらそうでもないですね。私は書の魅力は乱れをどう扱うか、にあるのではないかと見ています。生身の人が短時間のうちに書くもの、必ず乱れ・ゆらぎが生じます。その短時間の中で、バランスをくずしたらそれをリカバーしようとするのか、あるいはアンバランスをむしろ良しとするのか、そんな瞬間的な心の動きが見える作品に惹かれるのかも知れません。文字が示す意味内容を、美術として書を見るとき評価軸に組み込むべきかという問題がありますが、私はそれは切り離してよいと思います。

筆に触れるこの季節、ふと書にまつわる体験を思い出しました。

 

 

 

デリシャスライティング~本のご紹介

今日の東京は夕方から強い雨、鳴り響く雷。

自宅にいる時間も長く外も薄暗く、なんとなく倦怠感を感じながら図面作業を進めていて思い出した1冊をご紹介します。思い出したら元気になりました。思い出すだけで楽しくなる本です。

 

 

建築を建てるときにしか決められない窓の位置、きちんと仕込んでおいた間接照明、などと「光」とはよくよく考えて設計しなければ、と思い込んでいた昔、この本に出会って、「光」ってその日の気分で変えちゃっていいんだ、変えられるんだ!と目からうろこが落とされました。

ソファの下にライトを置いて「フライングソファ」!

庭にランプを置いてエアポートみたいな雰囲気を楽しんだり。。。

文字にしちゃうと何のことやらですが、読んでるだけでも楽しいですし、使ってないデスクランプを使って即席レシピにしちゃおうかな、と読み手の想像力もかきたてられます。

 

もうすぐに見たい、知りたい!という方は東海林氏のHPを訪れてみてください。

http://www.deliciouslighting.jp/

本に出てるレシピも新しいレシピも満載です。