集合住宅panorama、アップが遅くなっており。
かわりにこんな写真を。
隅田川水面の表情、なんと豊かなことか。
上流に向かって漕いでおられます。
空虚。英語だとemptiness。からっぽという意味もありますね。「虚」(むなしい)という字で否定的な表現に使われることもありますが、「からっぽ」なら良いも悪いもないです。
空間における空虚さに関心があります。
例えばこの写真。リノベーションのために内装を解体した姿です。ついこの前まであった住宅の内装が取り払われると、家だか商店だか倉庫だかわからないことになってしまいます。空間の「意味」が取り払われた空虚な状態といえるでしょう。
名前のつけようがない場所、管理の行き届かない場所。からっぽですが希望があります。「空き地」というものも空虚な場所です。しかし今の都心では空き地はほとんどなくなってしまいました。コインパーキングが空虚さを駆逐してしまいました。東京の都市空間には、さまざまな力を逃す「遊び」がほとんどなくなってしまいました。
からっぽの空間。これから何でも起りうるゼロの地点。これ以上に可能性をはらむ状態があるでしょうか。
空間を設計するとき、できるだけこの「開かれた」空虚さを殺さないようにしたいと思ってます。しかし設計するということは、そこに意匠性、機能性、耐久性…、という意味を何重にも付加して「固めていく」「閉じていく」作業です。
もちろん、空虚をただ放っておくのでは設計になりません。しかし空間に意味、記号が充満しすぎれば想像力が羽ばたく余白がなくなります。
その矛盾を超えていくことは、設計の最も根本的な難しさだと思います。(そんなことを考えている設計者がどれだけいるかはわかりませんが)
盲目的にデザインや機能を追求する姿勢は、空間の原初的な可能性から目を逸らしてしまいます。要件を満たしながら、出来合いの意味やイメージが付着していない無垢で空虚な空間、これが理想です。