「panorama」現場 7月5日

 

panoramaの現場です。

内部の工事が進んでいます。

耐火被覆や吹付け断熱の施工が完了しました。

外壁の大半はALCですが、通常品より表面がフラットで目地巾が小さい製品としています。普通に見るALCよりアスロックに近い印象です。いまは表面の補修をしています。これから塗装をおこないます。

 

 

 

 

ジュゼッペ・テラーニ

イタリア近代の建築家ジュゼッペ・テラーニのことをふとした拍子に思い出しました。すっかり忘れていましたが、そういえば20代のころに彼の建築を見たくて一人旅でコモ、ミラノをみてまわったことがありました。

その時は同世代のアダルベルト・リベラ設計のマラパルテ邸もカプリ島まで見に行きました。

イタリア半島をけっこうな距離縦断したことになります。

テラーニはコルビュジェたちより少し若く建築の開拓者という受け取られ方はされません。そのためか日本の建築教育のなかではうまく位置づけることができていない人だと思います。もちろんイタリア合理主義建築は日本でも広く知られてはいますが、1983年の『SD』以降建築雑誌で特集されたのを見た記憶がありません。

1943年に39歳という若さで亡くなっています。十数年の短い活動で残された作品の完成度は目をみはるものがあります。代表作カサ・デル・ファッショ(テラーニはムッソリーニに接近しています。)は1936年完成ですから32歳ころの作品ですが、特にホール空間のデザインの熟練度は32歳の仕事とは思えません。

一言でいうとテラーニのデザインはレイヤーのデザインだと思います。特にファサードでのレイヤー的造形で奥行きと透明感のある外観をつくっています。

モダニズムのデザインは「透明性」という概念・イメージと強く結びついています。テラーニは建築の透明性を最も早いうちに高い水準で現実の建築に表現しえた建築家ではないでしょうか。コルビュジェの後追いと片付けるべきではありません。彼の手法は現代建築家リチャード・マイヤーや槇文彦といった人たちに受け継がれているように私には思えます。

テラーニはレイヤーをつくる際に、フレームや庇のような付加物をつけることがよく見られます。何の用途かよくわからないものもたまにあるので、これらは多分に装飾的性質を持つと思います。

パラダイムをつくる人、洗練させる人どちらもいて歴史が動いていく、そう思えないとテラーニの建築には納得できないでしょう。パラダイムシフトに関与できる人は建築デザインの世界では100年に数人であることを思えば、テラーニのような建築家の意味が分かります。

 

 

 

「H2プロジェクト」現場 板金打合せ

今日は板金の打合せです。板金の仕事がピシッと決まると建築が引き締まって見えるのでとても大事な工事です。屋上笠木の納まりを板金屋さんがその場で紙を折り示してくれました。雨仕舞い、意匠性、作業性、コストいろんな視点でディテールを詰めていきます。

 

 

 

「H2プロジェクト」上棟

 

今年は鉄骨建築の現場が続いています。

今日、H2プロジェクトが上棟しました。

途中豪雨があり心配しましたが職人さん方の慎重な作業のおかげで無事終えることができました。

写真は、組みあがったフレームを1階から見上げたものです。

立体格子の様子がよくわかります。

この、フレームだけが積層する状態はこの上棟の時しか見ることができないものです。

 

 

 

「panorama」現場 5月6日

今日のpanoramaの現場です。

隅田川を行く水上バスを横目に屋上防水の打ち合わせです。

GW的な今日はレジャーボートも行き来していました。

何とも楽しい光景がやり取りの緊張を和ませます。

好天の今日、屋上での打合せで日焼けしてしまいました。

 

 

「panorama」現場

panoramaの現場です。外装パネルが付きました。

5階の様子です。ルーフテラス越しに隅田川が見えます。

 

 

 

 

都市の大きさ

昔、建築家槇文彦氏が、都市では多くの人がいるにもかかわらず孤独を味わえる・匿名の存在になれる、という主旨のことをある本に書いていました。その部分が記憶に残っています。

その本では、近代都市での人と人の関係を示すイメージとして、点描の画家として知られるジョルジュ・スーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』という絵がとりあげられています。グランド・ジャット島はパリ、セーヌ川にある中州状の島です。この絵では、たくさんいる人々(画面内に約50人)が互いに視線を交差することなく思い思い時間を過ごしている様が描かれています。スーラは19世紀後半にすでに都市での人の関りを理解していたのだと思われます。

私が槇氏の文章に共鳴したのは、東京にその都市像が重なったからに他なりません。

考えてみれば、高密度に人がいてもそこにコミュニティがないという状態、あるいはパブリックな場で個人的な空間を身の回りに発現できるということは、かなり不思議なことです。これは都市に固有のことであり、またひとつの自由さです。ちょっと出かければまるで外国に来たような解き放たれた気分を味わえるのは東京のような「大」都市の魅力です。

一方、京都を訪れたとき、もしここで暮していたら繁華街で知人にばったり出会いそうだと思ったことがあります。街のなかで人の連鎖がおこりそうな感じがあります。それも楽しいことなのかもしれません。福岡も同じような感覚を生むスケールの街です。

東京も京都も福岡も同じく「都市」ととらえられる場所ですが、その中にいて感じることには違いがありそうです。それは都市の規模に関わるところが大きいのだろうと思います。